【連載】教養としての法律学  〜法律一般(その1)〜

第1 はしがきに代えて

 今回からは、「教養としての法律学」と題して、法律学について、連載形式で投稿していきたいと思います。
 法律一般と主要な5つの法(憲法、民法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法)について簡単に書いていく予定です。
 
 …と、その前に、どうしてこのような記事を書くかというと、一言でいえば、多くの人に法律を知ってほしいからです。
 多くの人に法律を知ってほしいと思ったきっかけは、ニュースでは憲法改正や共謀罪といった法律の話題もよく取り上げらており、皆さんの参考になればと考えたからです。

 また、「法学入門」「◯◯法入門」という趣旨の書籍は多く世に出ていますが、噛み砕いて説明しきれていない部分もあると感じますし、結局、細かい議論に入っているものが多く、「入門」といってもレベルが高いものが多いという印象です。
 
 本連載は、法学入門の入門という位置付けを意識して書いていきます。本連載が皆さんがニュースで登場する法律的なトピックを考える際の「法律的なものの考え方」の一助となれば幸いです。
 なお、本連載に記載されていることは私の私見も入っていますし、分かりやすさを優先しているためある種不正確な記載をしている部分もあります。
 いずれにしても、批判的な目で読んでいただけると幸いです。私も、大それたタイトルに負けないような連載を書いていきたいです。
 
 枕が長くなってしまいましたが、本題に入っていこうと思います。
 

 第2 法律って何?

 1 法律と道徳の違い 〜法律とは何者なのか〜
  「法律とは何者なのか」という問いは、正解のない難問であり、色々な考え方がありえます((理系の学問を学んだ方は、違和感を感じるかもしれません。しかし、法律学には正解がありません。これも法律学の理解が困難な原因の1つなのかもしれません。))。
⑴ 法律について
 一言でいってしまえば、法律とは、「強制力をもった道徳」です。
 ここで、強制力とは、「たとえ義務を負っている本人が拒絶をしていたとしても、国家は『法律が予定している状態』を実現できること」と思ってください。
  
 たとえば、住宅ローンを返せなかった人は、最終的に、銀行などからから裁判所を通じて資産(購入した住宅など)を「強制的に」金銭に換えられてしまい、お金を払わされてしまいます。また、他人の物を盗んだ人は、裁判を通じて有罪となれば、最終的に、法律に定められた刑罰を「強制的に」受けることになります。
 このように、法律は、国家(裁判所)の判断基準になります((専門用語でいうと、「裁判規範性がある」と言ったりします。))。
 また、ほとんどの人は、法律に従います。
 なぜなら、法律に抗うと裁判になり、時間的・金銭的なコストがかかる上に、下手をすると刑罰を課されるおそれがあり、どうせ法律に書いてある状態が現実になってしまうのなら法律に従った方がいいなと判断をするからです。
 法律は、人の行動の判断基準になるのです((人の行動の基準になることを、専門用語でいうと「行為規範性がある」と言ったりします。))。
 このように、法律は、人の行動の判断基準となるものであり、かつ、国家(裁判所)の判断基準にもなります。
 法律は、人の行動の判断基準となるだけでなく、国家(裁判所)の判断基準になるからこそ、強制力があるのです。
⑵ 道徳について 
 一方で、道徳も、個々人の道徳心に影響することで、人の行動の判断基準の1つとなりえます((ただし、本文第2の2と対比していただければ分かりますが、法律と道徳の行為規範性の根拠は異なります。))。
 しかし、道徳には、法律のような強制力はありません。つまり、道徳は、国家(裁判所)の判断基準にならないため、強制的に「道徳が想定する状況」が国家によって実現されることはありません。
 なぜ道徳には、法律のような強制力がないかというと、「道徳が想定する状況」といっても、人の価値判断は人の数だけあり、道徳は明らかな基準を提供してくれないからです。
 国家(裁判所の裁判官)が自己の信じる道徳(価値判断)に従って判断をし、これを国民に強制させてしまうと、裁判官がどのような道徳(価値判断)を持っているかによって国家の判断が分かれてしまいます。これでは国民はたまったものではありません。
 憲法76条3項は、「すべて裁判官は、…(中略)…この憲法及び法律にのみ拘束される。」と規定し、このことを表しています((今回は、あえて憲法76条3項に中略を設けました。なぜなら、中略部分には「良心に従ひ独立してその職権を行ひ」とあり、なんだ、裁判官は良心(道徳)にも従うんじゃないか、と誤解されてしまいそうだと判断したからです。ここにいう「良心」とは、各裁判官の個々人の道徳心ではなく、裁判官という役職に就く者として通常期待される客観的なものを指しています。決して各裁判官の自由な道徳心に判決を委ねる趣旨ではありません。))。
⑶ 小括
 以上をまとめると、道徳は、人の判断基準にはなりますが、国家(裁判所)の判断基準にはなりません。
 これに対して、法律は、人の行動の判断基準にもなるし、国家(裁判所)の判断基準にもなります。それ故に、法律は強制力を有するのです。
 
 そこで、国家(国会)は、社会をよりよくするために、全国民を代表して、道徳という多様な価値判断の中から、強制的に実現した方がよいと考えるものを議論して抽出し、法律という文章をもって明らかにします。国会によって、道徳の一部は法律化され、強制力を持つに至るのです。
2 具体例
 例えばですが、
 
【状況】
 今あなたが電車に乗って優先席の前辺りで立っているとします。あなたの横には杖をついたお婆さんが立っています。その前には若者が優先席に座っています。電車は混雑しており座席はすべて埋まっています。
 
【問い】
 あなたは、優先席に座っている若者に対し、「お婆さんに席を譲るべきだ」と指摘しますか?
 …どうでしょうか。
 もしかしたら、指摘すべきであると考えた人もいるかもしれませんし、そうでない人もいるかもしれません。
 例えば、1つの考え方として、その若者は、重い病気にかかり先日退院したばかりで、実は長時間立っていられる状態にないかもしれないからです((本文中の考え方の他にも、①優先席に座っている人は他にもいるのであって、目の前に座っている若者だけが指摘を受ける理由はない、②自分が座っている立場であれば譲るかもしれないが、他人に指摘までする必要はない(つまり、個々人の道徳心に委ねるべき問題で、他人に強制させるまでのことではないという価値判断といえます。)、③譲られる立場からしても、私はそんなにヤワでないから、頼んでもないのにその必要はないとの考えもあるかもしれません。))。
 このように、人の価値判断は人の数だけあり、道徳は共通の判断基準を提供してくれません。
 
 したがって、その若者が実際に席を譲らなかったとしても、席を譲れと強制されることはありません。道徳には法律のような強制力はないからです(周囲の人間の批判的な眼を向けられるという可能性も否定はできません。それを気にして若者が席を譲ったとしても、それはその若者が自分の道徳心に従ったことに他なりません。)。
 
 ここで仮に、良いか悪いかは別にして、「電車等公共交通機関の優先席に関する法律」なるものがあり、先の【状況】の若者の立場にあるような者は、お婆さんに席を譲るべきであると定め、これに違反したときは犯罪として罰金が課される、とします。
 すると若者は、罰金が嫌で、お婆さんに席を譲るでしょう(譲らなかった場合は罰金が課されます)。
 これは、「法律が予定してる状況」(=若者はお婆さんに席を譲る等、お年寄りが優先席に座るべきである)という価値判断があり、これが法律により強制的実現されたということができます。
 これはすなわち、国会が、先の【状況】にある若者はお婆さんに席を譲るべきだ、という価値判断を道徳の中から選び取って法律化したのです。
 

 …こんな具合で、道徳とういう特定の価値判断は法律化され、その価値判断は国により強制されます。また、国家(裁判所)によって、強制されてしまうのだから従おうということになります。

3 再び法律について
 現実離れした仮の世界の話はここまでにして、実際の法律をみてみましょう。
 例えば、民法555条は、「売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。」と定めることで、「売買契約をしたら,売主は買主に物を引き渡し、買主は売主に代金を支払うべきだ」という価値判断を強制的に実現しています((買主は、代金の支払いを拒むと、売主が裁判所に訴えることで、結局、売主から代金を取られてしまいます。そうであるなら、訴えられる前に、約束通り代金を払おうと考えるでしょう。))。

 また、刑法235条は、「他人の財物を窃取したものは、窃盗の罪とし、十年以下の長期又は五十万円以下の罰金に処する。」と定めることで、人の物を盗んではならないとう価値判断を強制的に実現しています((これは多くの人が賛同できる価値判断だと思いますし、もし仮に賛同できない人がいるとしても、刑罰を課されてしまうから盗みはしない方がいいだろうと判断になります))。

4 まとめ
 ここまでをまとめると、法律とは、「社会をよりよくするために、国会によって道徳から選び出された強制力のある価値判断」である((ここまで、強制力という言葉を用いてきましたが、ある人が、法律に違反してまででも行動した方が得だと判断することもあるので、強制力には一定の限界があります(たとえば、生活苦で何日も食べ物を食べていない人は、刑法235条があっても、食べ物をスーパーで万引きしてしまうかもしれません。ただ、これも法律が、「このように法律に従わない者がいてもよい」というある種の価値判断をしているともいえます。))、ということができます((ここまで、道徳と法律を区別して書いてきましたが、実際のところ、その区別はあいまいな領域があります。たとえば、民法1条2項は、「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。」と規定しています。この条文はある意味、道徳と法律の区別を曖昧にするものといえます。このような条文を「一般条項」といいますが、一般条項は法律の不備を補う機能があります。法律はあらゆる事例をカバーするようにある程度抽象的に規定されていますが、法律ができた時点で、将来のあらゆる事例を想定することは不可能です。そこで一般条項が法律の抜け道を塞ぐのです。このように、一般条項は、個別の条文にではカバーしきれなかったときにその真価を発揮するものであるため、いわば最後の砦です。これは、法律が道徳を取り込む契機があることを意味しています。一般条項を多用し過ぎてしまうと、裁判官の道徳心が強制力を持ってしまうこととなり非常に危険なため、極めて例外的な場合に限り発動されます。))。
 
5 そもそも、なぜ法律には強制力があるのか
 法律は、道徳という特定の価値判断に強制力を与えたもであるということは既に説明しましたが、「そんな価値判断は反対だ!」という人も当然いるでしょう((例えば、先の【状況】のケースのように、色々な考え方の人がいて、お年寄りに席を譲るべきとは考えない人もいることを想像してみてください。))。
 しかし、法律は、反対の考えの人も含め、国民全員に、否が応でも適用され、強制力をもっています。
 
 それでは、なぜ法律には強制力があるのでしょうか。
 この答えは、法律は国民みんなで決められたものだからです。「みんなが決めたことはみんなで守ろう」ということですね。これを民主主義といいます。
 実際は、選挙により選出された国会議員で構成される国会が、多数決で法律の内容を決定します。多数決ですから、少数派の人が反対しても、法律が成立し、少数派の人も含めた全員が多数派の価値判断を強制されます。全員が賛成することは滅多になく、反対する人もいる以上、最終的には止むをえません((もちろん多数派と少数派、賛成派と反対派が充分な議論をしたことが大前提です。民主主義には、少数派は多数派に従うという意味だけでなく、多数派も少数派も議論をして両派が尊重し合い対案を取り入れるという①民意集約機能や②結論の妥当性担保機能があります。))。
 このように、たとえ反対する人がいたとしても、賛成多数で可決された法律案は、「みんなで決めた」ものと扱われ、法律となるのです。民主主義とは、いわば絶対主義を意味するのです。
 それでは、多数派であれば、たとえ少数派の人を虐げてでも、価値判断を法律化して強制することができるのでしょうか。
 
 
 答えは、「否」です。
 
 
 憲法98条1項は、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律…(中略)…の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定め、法律の内容に限界を設けているからです。
 憲法は,人権などについて定めていますが、たとえ多数派であっても、人権を侵害するような内容の法律を定めることはできないのです。
 このように、人権には、法律の内容を否定するような強力な力があります。人権には、民主主義をひっくり返す強大な力を秘めているのです。
 
 次回は、憲法について書いていきたいと思います。