第二次安倍内閣が発足し、安倍総理は憲法改正(改憲)に意欲をみせています。各メディアも憲法について取り上げており、憲法は今、世間の注目を集めています。
そんなホットイシューでもある憲法ですが、まずは、憲法の存在意義について書き、次に、少しだけですが、改憲の是非について書いてみたいと思います。
第2 憲法とは何か
一言でいえば、憲法とは、「基本的人権を保障すること、および、国家権力の暴走を食い止める仕組み(三権分立)、について定めている国の最高法規」です。
憲法の特色は、国家権力を暴走を食い止める仕組み(手段)を用いて、基本的人権を保障すること(目的)にあります。
ここで、最高法規とは、憲法に違反する国家の行為は無効となること、つまり、国家の行為が憲法に抵触した場合には憲法が優先し、その抵触する限度で国家の行為は無効となること、を意味します((例えば、前回の投稿で既に述べましたが、国会の賛成多数によって成立した法律が少数者の基本的人権を侵害する場合、その法律はその限りで無効となります。また、内閣(行政権)・裁判所(司法権)のした行為が憲法に反するときも、同様に無効となります。憲法98条1項は、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」として、このことを明らかにしています。))。
では、なぜ憲法は、基本的人権の保障と国家権力の暴走の阻止について定め、これを最高法規として宣言しているのでしょうか((この答えのヒントは、前回の投稿の最後にちょっことだけ書きました。国会の賛成多数によって「みんなで決めた」ものとみなされることで価値判断(道徳)は法律化し、少数派の人達も含めて国民全員がその価値判断に強制されるのでした。本来であれば、国民全員一致の賛成によって法律が成立することが理想なのですが、これは不可能だからと考えられています(例えば,消費税増税法案について考えると,増税について賛成する人もいれば、反対する人もいることを想像してください。)。いわば、民主主義は次善の策なのです。ですから、多数派の人は、多数派の人達の価値判断を、少数派の人達を虐げてでまでも強制することが可能となってしまいます。これは非常におそろしいことです。そこで、民主主義の代償として、少数派の人達の「個人としての尊厳」を守るため、たとえ多数派の人達ですら少数派の人達を虐げることができないという絶対的な領域を設定し、これを保護することとしたのです。この絶対的な保護領域について規定しているのが、憲法における基本的人権についての規定です(もちろん、多数派の人達にも基本的人権は保障されています)。これは憲法の「現代的な意義」であるといえます。憲法の「歴史的な意義」については後述します。))。
これについて考えていくためには、歴史を遡ってみる必要があります。
国王1人の価値判断を法律化することで、たとえ国民全員が反対していたとしても、その価値判断を強制できるという時代があったのです。
これを図式化すると…
国王
——越えられない壁——
法律
——越えられない壁——
国民
現に、歴史的にみても、国王が圧倒的な権力を濫用し、国民が虐げられていた国もありました。国王に権力が集中していたのです。適切な例ではないかもしれませんが、ここでは、尾田栄一郎著の漫画「ONE PIECE」(集英社)((ひとつなぎの大秘宝(ONE PIECE)をめぐる海賊たちの海洋冒険ロマンを描いた作品で、私の大好きな漫画です(ど〜ん)。))を例に説明したいと思います。
たとえば、ONE PIECEには、ドラム王国で、主人公の仲間であるナミとサンジが病気・怪我で動けなくなってしまったため、主人公のルフィが、2人を背負って医者のいる山の山頂まで運んで診察してもらおうとしていたシーンがあります((ONE PIECE16巻138話「頂上」参照。))。ワポルはこれを邪魔しようと話しかけるのですが、ルフィは耳も傾けすらせず、ズカズカと進んで行きます。それに怒ったワポルは、その場で「おおそうだいい法律を思いついたぞチェス(注:ワポルの部下)!書き留めろ!『王を無視した人惨殺』」と言って、立法権を行使して法律を作りました。そして、その直後、ワポルは、
「1番ムシしてやがるその病人とケガ人(ナミとサンジ)から殺してやれ((これは、ナミとサンジが法律に違反しているか、すなわち、ナミとサンジがワポルを無視しているかどうかを判断する権力の行使ですから、司法権の行使にあたります。)) お前達っ!!!(注:ワポルの部下)((これは、ワポルが司法権を行使し、ナミとサンジは惨殺と判断したため、その「執行を」部下に命じているといえますので、行政権の行使にあたります。))」
と言って、司法権と行政権も行使しています。
…こんな具合で、ワポルは、ルフィたちが気に入らないという単なるワガママな理由から、漫画の見開き1ページという一瞬の間に(!)、国家権力のすべて(立法権・行政権・司法権の三権)を行使しています。 現実であればおそろしい話です。
このように、国王に国家権力が集中してしまうと、権力は暴走し、国民が虐げられてしまうおそれがあります。
そして、現実世界でも、本当におそろしい話ですが、ワポルのように権力を濫用していた国王がいたのも事実です。
そんな恐ろしい国が中世の時代にはあったのですが、この頃あたりから、現代において「憲法」と言われているものの萌芽がみられはじめます。
自然権とは、人は生まれながらにして、生命・身体・財産を侵されない、という概念です。そして、啓蒙思想家たちは、自然権は、国王によっても侵すことができないと言うのです。自然権は、後に基本的人権と言われるものの基となった概念です。
三権分立とは、国家権力である三権(立法権・行政権・司法権)を分散させ、これを異なる機関に帰属させることで、互いが互いを牽制するようにして、国家権力の暴走を抑える仕組みのこと、をいいます。具体的には、立法権を国会に、行政権を内閣に、司法権を裁判所に、それぞれ与え、かつ、三者同士で互いが互いを牽制し合うような仕組みを設けています。これによって、三権が互いをチェックし合い、権力の暴走が阻止されます。
さらに、国王も国民であり、国民の民意を代表する機関にすぎないのだから、等しく法律の適用を受けるべきだとも考えられるようになりました。
これを図式化すると…
自然権+三権分立((前述のように,この2つは,後の憲法の内容の基礎となるものです。))
———-越えられない壁———-
法律
———-越えられない壁———-
国民(国王も含む)
といった具合です。
この啓蒙思想家たちの考え方が、当時虐げられていた国民に広がり、国民は「俺たちは自由なんだ!国王も含めてみんな平等なんだ!」と思うようになりました。
そして、ついに国民の不満が爆発し、国家がひっくり返るという歴史的大事件が起こります。
これがフランス革命です。
フランス革命の後には、フランス人権宣言がなされます。
これを契機に、世界では憲法が定められるようになりました((ただ、憲法が作られたから直ぐに皆ハッピーになれたかというとそうではなく、ブルジョワジーの台頭・夜警国家から福祉国家へ、という流れを経て現在に至ることとなります。もちろん、現在の国家体制で皆ハッピーかといえば必ずしもそうではなく、この先は私達が考えていかなければならない重大な課題です。私達もまた、歴史の中にいるのです。))。
統治機構は、国家権力の暴走を阻止して基本的人権の保障を実質化するために、国家権力の在り方を緻密化し、権力に足枷をかけています。
立憲主義は、国民が国家権力に虐げられまいと、長い歴史を経て、人類が確立した知恵です。立憲主義について定めたことは、憲法の「歴史的な意義」です。
第6 憲法改正について
そんな時の与党である自民党の憲法改正案では、いくつもの条文が改正の対象となっていますが,政府は、憲法96条1項の改正も意図しているようです。
つまり、憲法改正の手続要件について定めています。
そして、その謳い文句として、安倍総理は「憲法を国民のみなさんの手に!」と言っておられます。
もちろん、政権が憲法は邪魔だと思っているといことは、憲法が監視カメラとして国家権力が暴走することを阻止するために機能してるという証でもあります。
少なくとも、私にはそう見えてしまいます。私は、自民党の憲法改正案に、全面的ではないにしろ、基本的には反対の立場なのですが、反対だからそのように映ってしまっているだけなのでしょうか?これは記事を読んでいただいた皆さんにも是非考えていただきたい問題です。
最高法規性とは,憲法に違反する法律などは無効となることであるということは既に述べました。この最高法規性は、憲法の改正要件が、法律の作成要件よりも厳しいからこそ、保たれているものです((このように、改憲要件が立法要件よりも厳しい憲法を「硬性憲法」といいます。))。
それでも、緩やかになったとはいえ、憲法の改正要件の方が、法律の作成要件よりも厳しくなってはいます。
この意味で、私は、特に、政府の憲法改正案のうち、憲法96条1項についての改正案には反対です。
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